概要
病理学第二講座は、広島県立医学専門学校開校のおよそ二年後に聞かれ、5代にわたって継がれて、この夏(平成29年7月1日)、開講70年を迎える。この間、130名をこえる教官、大学院生、研究生などの在籍があり、昭和35(1960)年、渡辺漸によって命名され発足した同門会“一樹会”には、現在でも80名以上の名が連なる。この中には、原爆放射能医学研究所教授として活躍した故 廣瀬文男、横路謙次郎、元広島大学医学部臨床検査医学教授(現・広島県立福祉大学長) 故 坪倉篤雄、前第一病理教授 田原榮一(現 広島がんセミナー理事長)などが含まれ、また、県下の主要な基幹病院・施設の病理医あるいは管理者としても多数の人材を輩出している。
人事と業績
(1)渡辺漸教授時代(昭和22年6月〜昭和36年7月)
病理学第二講座は、初代教授、渡辺 漸が昭和22(1947)年6月27日付で、広島医学専門学校に講師として着任し、7月1日に同校阿賀分院において最初の講義を行ったことにはじまる。渡辺は明治36(1903)年東京都に生まれ、昭和4年東京帝国大学医学部を卒業し、同病理学教室副手、同伝染病研究所病理部をへて、16年7月、平壌医学専門学校に教授として赴任したが、終戦後朝鮮から引き揚げていた。教室は22年8月10日に二河校舎内に設けられたが、当時の病理学教室の構成員は、病理学第一講座の教授玉川忠太と技官1名に渡辺を加えて、わずか3名であった。同年11月下旬には教室は阿賀分院に移転したが、移転作業がほぼ完了した12月中旬に、阿賀分院は全焼し教室も灰燼に帰した。翌23年2月、阿賀駅前の呉海軍共済病院阿賀分院跡にふたたび移転し、4月に県立医科大学の開学を迎えた。
和23年9月14日に渡辺は広島県立医科大学教授を拝命した。この年から、教室への入室者があいつぎ、6月に和田直美(副手)、10月に門前徹夫(副手)、12月に山本務(助手)らが、25年には廣瀬文男(副手)らが加わり、26年6月には、助教授として山田明が着任した。この間の教室の研究の主たるテーマは造血系の病理であり、リンパ球の生成機序に関する実験的研究、白血球の組織化学的研究などが行われた。26年4月の日本血液学会においては、被爆者白血病剖検例の報告と同時に、渡辺が被爆者白血病症例の病理について講演した。
昭和28年8月、広島県立医科大学は広島大学医学部へ移管されたが、この時期に広島県立医科大学第1回卒業生の横路謙次郎、徳岡昭治が入室し、教室の陣容も整って、研究も躍進期に入った。当時は、引き続いて造血系の病理が主たる研究テーマであり、動物を用いての白血病誘発実験などが行われた。渡辺はそれらの成果を29年の第5回国際血液学会(パリ)や13年の第6回同学会(ボストン)において講演し、さらに32年4月の日本病理学会総会では、「白血病の発現並に進展に関する病理解剖学的研究」として宿題演説を行った。渡辺は、27年4月より大久野島ガス障害認定審査会委員を、29年3月より原爆症調査研究協議会委員、同年5月、放射線影響調査研究協議会委員、同年5月、放射線影響調査研究別委員会委員、32年4月より原子爆弾被爆者医療審議会委員などを歴任し、被爆者援護についても多大の貢献をした。
昭和32年2月には、医学部の移転とともに教室も現在の広島市霞町へ移った。渡辺は33年3月より医学部長を務め、さらに35年11月には、白血病に関する研究業績によって第2回中国科学賞を36年4月には、開設された広島大学原爆放射能医学研究所の初代所長を兼任し、同年7月には研究所専任となって医学部を離れたため、教室は次の世代へ受け継がれることとなった。
その後の渡辺は、昭和42年4月1日、広島大学を定年退官し、同年5月、名誉教授の称号を受けた。さらに、43年8月からは国立がんセンター研究所病理部長を務め、49年11月、勲二等瑞宝章叙勲の栄誉を受けた。51年4月に国際血液学会会頭を務めたのち、11月、国立がんセンターを退職した。59年4月2日、心筋梗塞にて生涯を終え(享年80歳)、従三位が追贈された。
(2)山田明教授時代(昭和36年12月〜昭和49年4月)
昭和26(1952)年以来助教授を務めてきた山田明が、36年12月1日付で第二代の教授に昇任した。山田は明治44(1911)年新潟市に出生し、昭和16年満州医科大学を卒業後、平壌医科専門学校助教授、満州医科大学専門部講師を歴任し、終戦後は、21年より法務庁技官を務めたのち、本学教官となった。
教室の陣容は、徳岡昭治が昭和37年1月より助教授に就き、助手として坪倉篤雄、海佐裕幸が加わり、39年4月には田原榮一、41年には林雄三ら多くの大学院生が入室した。この間研究面では、37年11月、日本病理学会秋季総会において山田は年来の研究成果を“マスタードガスによる気道癌”と題して発表したが、この研究は、内科学第二講座(和田直教授)との間の協同研究の成果であり、これ以降もこの協同研究は継続した。41年4月には、渡辺漸会長、山田明副会長のもと、広島市公会堂、平和記念館および県立体育館を会場として、第55回日本病理学会総会を主催した。
昭和44年、大学紛争は全国に波及し、7月、病理学教室も学生の手によって封鎖、占拠されて、いっさいの研究活動は停止した。この封鎖は10月までつづき、この間教室員は、図書館などの建物に避難せざるをえなかった。
山田は、前述したマスタードガス障害に関する研究の成果を、昭和41年の第9回国際胸部疾患会議(コペンハーゲン)、46年の日本肺癌学会総会での特別報告、47年の日本胸部疾患学会での特別講演などでも発表し、49年4月の日本病理学会総会での宿題報告“職業性毒ガス中毒の病理解剖学的研究―特に呼吸器癌の発生について”において集大成した。ヒトにおける化学発癌の実例としてはきわめて貴重な研究として評価され、48年11月、この研究業績によって、中国文化賞を受けた。
医学部において山田は、昭和44年より附属図書館医学分館長を、また45年より評議員を務めるなどの功績を残した。
昭和49年4月1日、山田は定年により退官したが、その後は、広島県医師会腫瘍登録委員会腫瘍登録室長を59年10月まで務め、広島県の腫瘍登録事業の発展に多大な貢献をした。60年5月、腎不全によって生涯を終え(享年73歳)、正四位勲三等瑞宝章の叙勲を受けた。
(3)徳岡昭治教授時代(昭和49年7月〜平成2年3月)
徳岡昭治は、昭和2(1927)年尾道市において出生し、27年広島県立医科大学を卒業、渡辺漸教授時代の教室に副手として入室した。31年から4年余にわたり、アメリカ合衆国テネシー州立大およびテキサス州立大附属M・D・アンダーソン癌研究所へ留学し、帰国後、34年10月より外科学第一講座の助手、中央検査部の講師をへて、37年1月より、教室の助教授を務めた。46年12月1日付で、鹿児島大学医学部教授に就任していたが、選任されて49年7月16日付で母教室の第三代教授となった。
教室の陣容は、助教授海佐裕幸、講師田原榮一、助手林雄三であり、大学院生としては昭和49年4月に青木陽一郎、井内康輝が加わり福原敏行以下8名が在籍することとなった。その後、海佐は51年、広島県衛生研究所所長として転出したため、田原が52年1月助教授に昇任した。田原はさらにドイツに留学中、53年6月、病理学第一講座の教授として選任され、教室を離れた。
徳岡は、多年のアメリカ留学の経験を生かし、本学医学部に人体病理学を確立することに力を注いだ。すなわち、創設期の中央検査部には、術中迅速検査用クリオスタット試作品を導入した。教授就任後にも、病理解剖診断の質の向上、生検・外科材料の診断の精度の向上をめざして教室員を薫陶した。これを基盤として、広島県内の基幹病院や研究施設への常勤病理医あるいは研究者の派遣を積極的に行った。すなわち、福原敏行を県立広島病院へ、児玉哲郎を国立がんセンターへ、松浦博夫を広島市民病院へ、赤水博史を広島原爆病院へ、江藤良三を放射線影響研究所へ、林雄三を安佐市民病院へ、西田俊博を中国労災病院へ、楠部滋を広島赤十字・原爆病院へ、竹本剛を県立広島病院へと転出させたが、その後、それぞれの病院および施設での彼らの活躍は、小冊子『病院病理医の歩み』としてまとめられた。本学附属病院においても昭和55年4月、国立大学の中で比較的早く病理部を発足させ、その初代部長に就任し、病理学教室の附属病院内での実践の場を確保した。
研究面では、当初、唾液腺・乳腺などの筋上皮細胞の腫瘍の形態発生への関与、子宮内膜癌の形態発生などをテーマとし成果もあげた。さらに教室の永年の研究テーマであるマスタードガス障害者の気道癌について、その前癌性病変の追究を計画し、剖検例気道の連続横断標本の中から異型性をもつ上皮すなわち異形成を見出すことに努めた。その成果は昭和57年の第24回日本肺癌学会総会の特別講演、58年の第43回日本肺癌学会のシンポジウム“ヒト癌の初期相”などで発表され、中枢型肺癌の多段階的発癌の先駆的研究となった。また、被爆者における呼吸器癌の発生についても、日米の共同研究の日本側代表として尽力し、被爆者の卵巣腫瘍や乳癌についても放射線影響研究所との協同研究によってその発生の増加を明らかにした。また、アスベストによる発癌についても、剖検例を経年的に検索しアスベスト沈着状況の増悪と、悪性中度腫の発生の増加が関連することを指摘した。
徳岡は医学部の運営についても大きく貢献し、昭和56年10月より2年間評議員を務め、さらに61年より2年間医学部長の要職にあった。広島県医師会では、「広島医学」編集委員、腫瘍登録実務委員会委員長などを務め、その学術活動に貢献した。平成2(1990)年3月31日、徳岡は定年退官し、名誉教授の称号を受けた。以後、放射線影響研究所顧問研究員となり、被爆者の癌発生の調査研究を継続してきた。平成17年11月10日には瑞宝章授与された。その後も、放射線影響研究所で研究活動を継続してきたが、平成24年9月29日、生涯を終えた(享年85才。)
(4)井内康輝教授時代(平成2年5月〜平成24年3月)
平成2(1990)年5月1日付で、第四代教授として井内康輝が助教授より昇任した。井内は昭和23(1948)年福山市に生まれ、昭和49(1974)年広島大学医学部を卒業後ただちに大学院生として教室に入室し、昭和53年より助手、昭和57年より講師、昭和60年より助教授を務めた。この間、昭和55年、ジョンスホプキンス大学、昭和58年から昭和59年にかけてセントバーナバズ・メディカルセンターにおいて病理レジデントとして人体病理学の研鑽を積む機会をえている。
教室の研究は、新しい時代を迎え、従来の形態学を中心とした研究を基盤に、分子生物学的手法を採り入れることを試み、助手武島幸男は米国国立癌研究所人体発癌研究室へ、助手有広光司もフランスパスツール研究所免疫学部門へ留学し、遺伝子検索法や微量蛋白検出法を学び、教室へ導入した。
研究テーマとしては、まず教室の永年のテーマであるマスタードガス障害者の気道癌、とくに扁平上皮癌の発生過程について、p53遺伝子をはじめとするがん抑制遺伝子およびがん遺伝子の異常の面から新たな検討を加え、原爆被爆者における肺癌にみられる異常との比較も米国国立癌研究所人体発癌研究室(Dr.Harris)との共同研究として行った。乳がんについては、その発生母地としての上皮増殖性病変の研究を行い、遺伝子面での異常との関連を追究した。平成17(2005)年に発生したクボタショックを契機として新たな公害として社会問題となった石綿(アスベスト)曝露によるがんの発生については、それまで中皮腫を研究対象としていた数少ない病理学教室として日本での指導的立場にたち、中皮腫や肺癌の病理学的研究を推進した。また、日本の代表として、IARCの発がんリスクの会議に参加、国際パネルでの中皮腫の診断基準の作成、ヘルシンキクライテリアとして知られる石綿による人体障害のレビューの作成などにも参画した。さらに、認識が遅れていた日本における石綿曝露による腫瘍性および非腫瘍性疾患の診断の精度向上に、日本病理学会、日本肺癌学会などでの教育講演あるいは、環境省および厚生労働省での患者の救済・補償制度の運用面で大きな貢献を果した。
その他の国際的な活動としては、カザフスタンでのセミパラテンスク核実験場周囲被爆者の検診活動、イランにおけるマスタードガス障害者を対象とした共同研究やアジア諸国での石綿関連疾患の診断の普及に努めた。
学会活動としては、日本病理学会理事として中国四国支部長(2000-2009年)を兼務し、スライドカンファレンスや病理学夏の学校の運営にあたった。日本肺癌学会では、組織分類委員会委員長(1999-2005年)を務めて、肺癌の病理組織分類をWHO分類に準拠したものに改めた。理事となって、平成22(2010)年、広島にて、第51回日本肺癌学会を主催した。石綿関連では、多くの研究班単位での研究に従事し、石綿・中皮腫研究会の代表幹事(2000-2011年)、および中皮腫パネルの代表世話人(2004-2012年)も務めた。日本乳癌学会では、理事(2000-2008年)を務め、良性乳腺疾患研究会(現日本乳腺疾患研究会)設立に携わり、広島では、乳腺診断フォーラム広島(2000-2010年)の代表を務めた。日本医学教育学会では、2003年から評議員を務め、2009年から2013年まで副会長(法人化後は副理事長)の任にあった。平成23(2011)年には第43回日本医学教育学会を広島で主催した。
広島大学医学部では、教務委員長(1994-1999年)及び医学部長兼医学系研究科長(2002-2006年)を務め、医学部の教育カリキュラム改革に取り組んだ。また広島大学の多くの委員会活動を通して、広島大学の大学院講座化(大学院大学化)及び国立大学法人化に貢献した。その結果、広島大学は国立大学法人広島大学となり、講座名は、平成14(2002)年4月より広島大学大学院医歯薬学総合研究科、病態情報医科学講座となった。また、広島県ではがん対策基本法にもとづくがん対策協議会委員長として、がん検診の普及やがんの診断・治療のネットワークの形成に務めた。
(5)武島幸男教授時代(平成24年7月1日〜)
平成24(2012)年7月1日付で、第五代教授として武島幸男が准教授より昇任した。武島は昭和37年江田島市(旧佐伯郡大柿町)に生まれた。昭和62(1987)年、広島大学医学部を卒業後直ちに大学院生として教室に入室し、平成3(1991)年、アメリカ合衆国国立がん研究所人体発がん研究室 (Dr. Curtis C. Harris主宰)へ2年間留学し、各種分子生物学的研究手法の研鑽を積む機会を得た。以後、入局後30年間にわたって当教室に籍を置いている。
研究は、井内名誉教授時代の研究内容を継続し、特にアスベスト関連疾患や中皮腫の研究に特化した内容になっている。すなわち、1)日本における中皮腫病理診断の精度の把握、2)中皮腫との鑑別診断、特に肺がんや腹膜がんなどとの鑑別に有用な免疫組織化学的染色に有用な抗体・遺伝子の検討、3)網羅的遺伝子発現解析による新規鑑別マーカーの発見と応用、4)中皮腫に対する新規分子標的治療開発に資する抗体開発の病理学的基盤について検討などである。さらに、これらに加えmicroRNAの発現やそのターゲットとなる遺伝子の意義について探り、中皮腫の早期診断や分子標的治療の基盤となる研究を行っている。平成27年度、28年度には、環境省の委託事業「石綿関連疾患に係る医学的所見の解析調査業務(石綿関連肺がんの病理学的鑑別法に関する調査)の主任研究者として、井内名誉教授らとともに研究を展開している。また、平成11(2003)年から中皮腫の診断精度向上のためのスライドカンファレンスとして、井内名誉教授が立ち上げた「中皮腫パネル」の主催・世話人の実践を継続しており、平成29年2月末までに計24回のパネルを開催し、パネル開始以来220例を超える例の検討を行った。また、広島病理集談会は開催数は67回に及び、特に広島の若い病理専攻医の研鑽の場としての役割を果たしている。
学会活動・社会貢献としては、中央環境審議会専門委員、石綿確定委員会委員、広島労働局労災協力医をつとめ、石綿関連疾患者の労災認定・救済に携わっている。また、広島県医師会の腫瘍登録実務委員会委員長を、学会では、日本肺癌学会病理診断委員会委員、細胞診判定基準改定委員会委員、毒ガス障害認定審査委員会委員などをつとめ、教室が長年にわたって携わってきた任を継続している。学内では医歯薬保健学研究科教育委員会 医学専門委員会委員長、医学科教育プログラム評価委員会委員長など、大学院・学部教育の改善に尽力している。
学部学生の教育は、チュートリアル方式を継続し、分子病理学研究室 安井弥教授、大学病院病理診断科 有廣光司教授と分担して演習要素を主体とする授業方式に改変し、現在も継続している。平成24(2012)年からは医学研究実習として医学部生4年生を受け入れ(現在までに計16名)、病理学研究室における基礎研究・病理診断業務の実践を体験させ、研究マインドの醸成、基礎医学研究者、病理医を目指す人材の獲得のための努力を日々行っている。
上記運営・業務を、講師のAmatya V. Jeet、助教の櫛谷 桂およびその他のスタッフの協力の元で遂行している。さらに、平成25(2013)年には大学のグローバル化ミッションに応えるべくエジプトから外国人客員研究員としてAmany Mawas氏を迎えた。